眼記録

墓場夢子(眼)

何でもかんでも受け入れられ過ぎてるだけ

作品と作者は別、という考えがあります。私も概ね分かるのですが、時はSNS総人口時代、作者の人格が垣間見えてしまう今、作品と本人をまったく切り離して考えることは困難に思います。事務所に所属していない、自己運営のアーティストは特に顕著です。


夏遠征のあるライブにて、会場の各所に仕込みを入れて、後半は参加型のゲーム形式でライブしました。使った機材はスマホ1台(生音)。

総合司会の方が「前衛的過ぎてついていける人は少ないかもしれない、ただこういう人が大事、とにかくすごいんですこの方」とふってくださった。対して1人のお客さん(関西出身)に「東京は何でもかんでも受け入れられ過ぎてるだけ」とガヤられました。この方には同じことを何度も言われています。ここで一部の方は、どうせ年上の老害、放っておけばいい、と想像したかも知れません。恐ろしいことに、最近25歳になったばかりの青年の発言なのです。私は老害は35歳くらいで始まるから、それまでを如何にして生きるかを意識してきましたが、老害の低年齢化は深刻のようです。話は戻して、つまるところ、私は何でもかんでも受け入れられない状況下になると、こぼれ落ちてしまう存在ということ。

大阪での自分の扱われ方への合点、少数派への侮蔑を感じました。

何でも(誰でも)受け入れられる環境というのは、村社会になりがち、コミュニティで固まりがちなインディーズの音楽界隈において、とても貴重かつ、実はこのような環境を作るのはとても難しいことだと思っています。もちろん「何でも」と言っても暴力や犯罪、人を傷つける行為は含まれません。

だから、こんなに何でも受け入れてくれる環境下において、貴方が出演者として呼ばれていないことも考えて欲しいと思いました。誰かと誰かを比べたり、人を見下したりする発言、誰かを傷つけたり不快にする行為を日々SNSでしている人間の音楽は聞きたいでしょうか。いや、それ以前に関わいたいと思うでしょうか。

私がいま活動してる範囲は、何でもかんでも受け入れられる状況下にあると思います。

なぜそんな環境が仕上がったのか?「売れてない」「知名度がない」といった表面的なものでジャッジしない、良いイベントになることを心がけ、自分のみならず全体が良くなるようにという気持ちが強い人たちが集まった結果だと思います。


自分が表現者としてやりたいことは、特に決まっていません。決めるつもりもありません。私の機材を見ろ!とか、私の訴えを聞け!なんて自我は1ミリもなくて、その日のイベントがどういった趣旨で組まているか、というところからライブ制作が始まります。結果、その日のライブに必要な機材はスマホ1台だった、というだけです。逆に機材量が体重くらいある日もあります。他にも、表現方法がライブを離れてイラストや漫画になる場合もあります。

言われるのは「結局、何がやりたいの?」「音楽?アイドル?」「ちゃんとした方がいい」。


こんな私を受け入れ、良しとしてくれる環境は、見下されるものではないです。

その後も暖かい現場が続き、今後も表現方法に捕らわれず、必ずもっと面白いステージを作れる人間になろうと思えました。終