眼記録

墓場夢子(眼)

今夜カレーライスにする理由

アリストテレスソクラテスプラトンニーチェフロイトガンジーマザーテレサ…思考は進化して進化して進化して、洗練されて洗練されて洗練されて、どんどん論理的になって無駄が省かれていった。

それはやがて喜怒哀楽も侵食しはじめ、まず最初にこの世界から「怒り」という感情がなくなった。

「怒り」の感情は人間にとって一番不用だと思う。これが引き金となって、殺人とか犯罪に繋がったりするんでしょう?昔の映画で「怒り」のシーンは見たことがあるけれど、感想を一言で言うなら…とても醜い。ある女の人が「ブス」と言われて、言った人に殴りかかっていた。また別の「怒り」についての資料で、「料理が来ない」ことに対して「イライラする」「店員に高圧的な態度を取る」という例を見たことがある。
ブスと言われても、そのブスは言った人の感覚に過ぎない。料理が来なければ来てませんと主張すれば良い。これが現代の思考。思考というか、普通のことですよね…。


次になくなったのが「哀しみ」。これもとても厄介な感情。哀しみは主に、期待してそれが外れた時に起きる感情らしい。この人は死なない。好きな人が私のことも好き。あの高校に通いたい。友達は私の悪口を言ったりしない。
今どき期待などという非効率的な思考をする人がいなくなったから、必然的に「哀しみ」の感情も消えたんだろう。それこそ「絶望」とか死語。それでも年に数名の、哀しみによる自殺者のニュースを聞く。地方に多いイメージ。
思考が洗練され発達し、私たちは全ての事実を感情を通さず事象として受け入れるようになった。そうすることで素早く次に一番効率的な発言/行動を導き出すことができる。ただ、全ての物事を無感情に過ごすわけではない。感情は最後に付属してくる。ちゃんと思考で対処したあと、そこに喜びだとか、楽しみだとか。好きという感情だって抱く。

ただ、この方法は一昼一夜にして出来上がったものではない。先人たちの「失敗」の積み重ねにより研究され確立されたもの。怒り狂ったり、悲しみに暮れていた彼らの苦悩や苦労や努力を、現代の思考から捉えてバカだなという一言で軽蔑することはできない。

こういった感情のコントロール、思考の効率化が飛躍的に広まったのは安始頃かららしい。
きっかけはその一つ前の年号、平成という時代だという。平成時代、世の中にインターネットが一気に広まった。インターネットが広まる以前は、人々は家族や学校、会社、趣味といった実際に会って交流が出来る範囲でのみコミュニティを築いていた。しかしインターネットの普及によって、コミュニティの数は無限大に広がった。同時にそれまで見ることのなかった他人の内面が文字として視界に入るようになった。こうなる以前に人々が見ることができた他人の内面といえば、エッセイという著名人が出版用にフィルターを通して書いた内面(という名の作品)くらいだった。インターネットには生々しい他人の内面が湧き水のように溢れ、滝のように流れ込んできた。この考え、私だけじゃなかったんだ!と勇気づけられた人もいただろう。ひとりぼっちだと思っていた人が集まって大きなコミュニティになった例もある。しかし圧倒的に絶望した人の方が多かった。人々は発信者も分からないようなインターネットの言葉を信じた。それらの言葉は「本当の声」だったから、身近な人間の上辺だけの言葉より説得力があった。今みたいな効率的な思考が確立されていない時代、平成の人々はパニック状態になり、心は大変荒んだそう。脳に大変な負担がかかり、鬱という病気が爆発的に増えた。
平成の後期に文部科学大臣が変わり、インターネットが授業で大きく取り扱われるようになった。それまでも「情報」という形でパソコンを使った授業はあったが、あくまで操作方法など上辺だけのものだった。「情報」は5教科と対等に扱われるようになった。この頃から「情報」ではSNSの使い方、匿名掲示板の捉え方などが主に授業された。
安始に入った頃から、教育に「思考」という科目が加わった。昔は「道徳」という名前だったという。そもそも道徳って人が人に教えられるものなんだろうか?32人いる教室で、一つの捉え方を正解として授業する。当時の人は誰も疑問に思わなかったのかなぁ。や、思った人もいるだろうけど、主張すれば先生に「はいこれが悪い例です」と片付けられてしまって、先生側の文化の人たちにはどう足掻いても伝わらなかったんだろうな。しかも何かで一回見たことあるけど、道徳では主に昭和時代の太平洋戦争や、外国人との異文化を取り扱っていて、「ほとんどの生徒の考えが同じになる」ような題材をあえて選んでいたとか。教室内での文化の違いには目を瞑ってたんだって。みんな同じ正義を持っている錯覚。そんな中でインターネットなんか開いた日には大変だったろうな。
話は戻って「思考」の授業について。論理的に、無駄がないよう、的確に次の発言や行動を導き出すことを目的とした授業。ただし最も効率的な考え方の正解、というものはない。人それぞれ育った環境と感覚が違うから。ただ教科書で様々な捉え方、考え方を知ることによって、自分にとって一番効率良い思考を編み出し、発表する。他人の意見も大事だ。思考は常に更新されるべきもので、良いと思った思考に随時シフトチェンジしていく。

教科書はほぼ毎年更新される。年に2回教科書が変わった年もあるらしい。

私たちは卒業後もインターネットを通して思考を学び続ける。犯罪などを引き起こしてしまう人間は、思考の学びを止めた者に多い。

私たち世代になると、まず学びを止めない。なぜなら学びを止めるメリットが見つからないからだ。そう教育されている。というか、教科書やネットを通して自ら情報を得た上で、学びを止めないことが効率的であると心底感じている。だから止めないことに負担もない。
こうして現代は「怒り」や「哀しみ」を随時リセットし、むしろリセット以前に囚われる間も無く事実を現象として受け入れている。


とあるカップル。
私たち、こういう理由で結婚した方がいいと思うのですが。
僕はこうこう思うので、結婚しない方がいいと考えます。
なるほど、そうですね。
プロポーズ失敗。それも女性からの。しかしそこに絶望も哀しみもない。男の言うことに異論があるなら女は主張するし、なかったので納得した。
結婚しないのならば、なぜ2人は付き合っているのか。
男はいう。
君の喜ぶ顔はとても人生のモチベーションになる。また、君を喜ばせる方法が僕のやり方に合っている。
女はいう。
人が自分のおかげでモチベーションが上がってくれるのは嬉しい、また私を喜ばせることに他の人より難を感じないのであれば、ぜひ付き合うべきでしょう。

男はいう。

けれど結婚となるとお互いの家族や親戚、扶養などで会社も巻き込む。僕の立場上、まだその時期ではない。

安心して結婚に踏み切る環境は大事だわ。私も今の一人暮らしをもう少し楽しむわ。
だから2人は付き合っていて一緒にいる。
そして、別れる時こそ一番「思考」的だ。
君の喜ぶ顔が特にモチベーションに繋がらなくなった。
ならば他を当たりましょう。時間の無駄は良くありません。
お互いがお互いに期待をしていないので話が早い。


私たちは「思考」を洗練し続ける。
中には「怒り」「哀しみ」という人間の本能を排他したことを憂う人もいる。高円寺なんかにはレトロ趣味で哀しみや怒りの音楽を歌う人たちがいる。結局こういったところから毎年教科書が更新されると聞いたことがあるので、大事な文化だ。私には少し分からないけれど…。


私たちは人生の中で「好き」「楽しい」「喜び」の瞬間を少しでも多く過ごしたいのだ。怒りに、哀しみに暮れている間に、人を愛せたらどんなに素晴らしいだろう。それが現代の私たちだ。

 

そういえば、最近カレーライスを食べていなかった。だから私はカレーライスを作る。

 f:id:hakabayumeko:20170730214524j:image